細川幽斎と古今伝授行平

このサイトでは、歴史上の人物と名刀について見ていきます。

まずは、徳川家武将の 細川幽斎(藤孝)の蔵刀を見ていきましょう。豊後の 刀工で後鳥羽院御番鍛冶をつ とめた行平の作刀が細川幽斎の日本刀です。関ケ原の戦いの前哨戦として、西方の武将小野公郷は兵 一万五千を率 いて田辺城の幽斎を攻めて、幽斎は五百足らずの兵で能城戦を続け、死 を覚悟していた。幽斎は武将であると同時に二条流の歌道に精通した当代随 一の歌人でした。細川幽斎は古今和歌集の解釈に関わる「古今伝授」の唯一の伝承者でもありました。もし幽斎が討ち死にすれば文化的な損失はかなりおおきかった。そのため、 幽斎の門下にあった八条宮智仁親王は何度も停戦の和議を試みた。しかしながら幽斎の決意は固く、城と共に死ぬ覚悟であったらしい。ついには御陽成天皇の勅 旨が下るにいたり幽斎は二ヶ月にわたる籠城を解きました。そして後に幽斎が勅伎に贈 った行平にも、古今伝授の名が冠されるようになったという。このように日本刀と歴史上の人物にはたくさんのエピソードがあります。次に細川忠興について見ていきましょう。