細川忠興と歌仙兼定

細川忠興の日本刀は、忠興の非情さを伝える美しくも恐ろしい剣美濃鍛冶の名工和泉守兼定の作です。忠興の考案 した肥後都 (歌仙持ともいう)の施された優美な刀です。細川家は文武に優れた家柄で、忠興の父幽斎は歌の道を極めた歌人としてなおはせていた。忠興は茶の道に通じており、千利休の高弟として「利 休七哲」の一人に数えられた。後には自ら三斎流を興している。そうした文化的素養を持つ反面、忠興には冷徹な面もあったと伝えられている。その顕著な例がこの歌仙兼定の名の由来にうかがえる。歌仙とは歌道の名人で三十六歌仙が有名であるが、忠興も兼定で三六 人の家臣を切り捨てたという逸話がある。忠興は信長を敬しており、臣下だったころに貰った九曜紋を代々家紋 とした。また本能寺の変では明智光秀の協力を断り、幽閉された過去が ある。忠興の冷徹さ、絢性は信長を真似したものなのかも知れない。