刀剣に興味を持ち始めた方が「名刀」と聞いて思い浮かべるのは、有名な武将の愛刀や、美しい刃文を持つ日本刀かもしれません。ですが、江戸時代にはそれらの名刀を系統的に記録した資料が存在します。それが「享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)」です。この記録は、8代将軍・徳川吉宗によって編纂が命じられた、まさに“刀剣リストの元祖”とも言える文書です。
享保名物帳が編纂されたのは享保年間(1716〜1736年)。吉宗は質素倹約を奨励した一方で、文化や学問の保護にも力を入れていました。その一環として、名刀の体系的整理を本阿弥家に命じ、完成したのがこの文書です。本阿弥家は代々刀の鑑定や研磨を担ってきた家系であり、当時もっとも信頼されていた刀剣専門家でした。
享保名物帳には、刀の名前・作者・刃の特徴・由来・伝来経路などが詳細に記録されており、中には押形(刀身の形を写し取った図)も添えられていました。記載された刀は、いずれも由緒や逸話を持つもので、「名物」として評価されたものばかりです。たとえば「童子切安綱」や「三日月宗近」など、現在でも著名な刀の多くがこの帳面に含まれています。
また、享保名物帳は、単なる一覧表ではなく、評価基準や当時の流通状況をも示す文化的価値の高い記録でもあります。当時の刀剣の格付けや、将軍家・大名家に伝わる刀の由緒を明らかにする資料として、現在でも刀剣研究者や歴史学者の間で重視されています。
興味深いのは、この帳面が「正本」と「副本」の2種類存在することです。正本は徳川将軍家に保管され、副本は本阿弥家が控えとして所有していました。現存する副本は国立歴史民俗博物館に所蔵されており、現在でも一部の内容を確認することができます。
享保名物帳は、刀剣の“カタログ”であると同時に、江戸時代の文化政策や美術鑑賞のあり方を反映した歴史資料でもあります。刀そのものに興味を持った人が、さらに深くその背景や評価のされ方を知りたくなったとき、享保名物帳は格好の入り口になるでしょう。徳川吉宗という人物が、単なる政治家ではなく文化の保護者でもあったことが、この名簿を通じて見えてくるのです。