刀剣の鋒/切先の構造について解説

刀剣の鋒/切先は、刀身の先端部分にあたり刀身の中でも一番美しい部分だと言われています。刀剣の鋒/切先は、先端が尖っている構造になっていて、戦の際に的を突くことに使われるので、武器としての戦闘能力の高さを左右させる部分になります。刀剣の鋒/切先はいくつかの部位にわけることができ構造も異なります。鋒・切先のふくらは、刃先部が曲線状になっている構造になり、しっかりとしたふくらみがある刀は評価が高く、刃こぼれを起こした際に悪い研ぎ方で刀を研いでしまうと曲線が失われることになり評価が落ちる傾向にあります。鋒・切先の帽子の刃文の部分の構造は、刀工や流派によって違いがあり、焼き入れの仕方によって紋様がさまざまになります。鋒・切先の帽子は、重ねが薄く焼き入れの難易度が高く、均等に火入れをするには高い技術が必要になります。

樋と二筋樋を読めますか

タイトルにあります、「樋」と「二筋樋」の読み方をご存知でしょうか。それぞれ「樋(ひ)」と「二筋樋(ふたすじひ)」と読むのですが、どちらも日本刀の刀身に掘られる細長い溝のことを意味し「二筋樋」は「樋」の種類の1つになります。イメージとしましては、戦国武将の持つ長い持ち手の槍(やり)の先についている銀色の相手を突く金属の部分の中央に溝が入っているのと同様に、刀の刃の波紋(切れる刃先)の上側と棟(むね)と呼ばれる背側の間に同じ太さの溝が2本平行にあると考えていただきたいと思います。
特に樋の中でも二筋樋と言えば、「刀・無銘・貞宗(かたな・むめい・さだむね)」と言われており、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて相模国(神奈川県)の刀工「貞宗」によって作られたことで有名です。

名刀大垣正宗とはどのようなものか

大垣正宗は、幕末の戊辰戦争の際に当時の米沢藩主であった上杉茂憲が帯刀し、その後名刀と言われたものです。もともとは鎌倉時代に制作されたものと言われていますが、その詳細は不明で、江戸時代以前は大垣藩の藩主を務めた戸田家に伝来したものとなっています。
江戸時代になってからは、大垣藩の初代藩主戸田氏鉄が2代将軍秀忠に献上し、その後秀忠は米沢藩2代藩主の上杉定勝にその元服を祝して譲り渡しました。そのため幕末までは上杉家の所有となり、戊辰戦争で活躍したものとなっています。
大垣正宗は名刀政宗の流れをくむものとなっており、その大きな刀身と粗利の少ない美しい形状は多くの人を魅了するものとなっているのが特徴です。しかし、作者不詳であることから、鎌倉時代の戦乱をくりぬけ現在にまでその美しさを保っている店が高く評価されています。

孝明天皇にとっての刀の存在

現在では日本刀はその美しさを競うものと見られることも多いのですが、戦国時代は重要な武器でもあり武士の魂とも言われるものでした。しかし多くの貴族や天皇家にとっては現在と同じように様々な節目節目で作るものであり、芸術品や記念品の意味合いが高かったのが実態です。その中で孝明天皇は伝正宗という名刀を非常に大切にしており、まるで武士のように心を寄せていたことがわかっています。

孝明天皇は日本が米国から開国を迫られ、また様々な討伐運動のきっかけとなった戦乱が激しい時期に天皇の座についた人物で、歴史の転換期の中で重要な役割を担っていた人物です。当時の幕府の政治に疑問を持ちながら、それでも米国の要求に応じて開国をすることを拒み、日本国内で幕府と天皇家が共存する道を模索した人物となっており、その孝明天皇が崩御したことが幕府の終焉を加速したとも言われています。

「圧切長谷部(へしきりはせべ)」

「圧切長谷部(へしきりはせべ)」の名を耳にしたことのある方も多いのではないでしょうか。圧切長谷部は、織田信長にまつわる有名な逸話をもつ名刀とされています。作者は国重(くにしげ)。この名刀が織田信長から福岡藩主の黒田家に渡ったエピソードに関しては諸説あるようですが、織田信長と黒田官兵衛の関係性を結び付ける名刀でもあります。「圧切(へしきり)」の名がつけられた所以は、織田信長の怒りをかってしまった茶坊主が、台所に逃げ込み棚の下に潜り込んだ際に、刀を振り回すスペースがなかったことから、信長が刀をそのまま棚のすき間に差し込んで「圧切った」ことからそう呼ばれるようになったようです。日本刀についての知識をお持ちの方であれば、日本刀は本来、差し切るものではなく引き切るものであることをご承知でありましょう。

武士たち

武士たちが日本刀を帯刀する意味において、武士たちの政権が武力によるものであったところが大きいようなのです。武士たちが歴史のなかで政権を握るまでは、朝廷を中心とする政治のしくみが国の中心にありました。武士という存在は、朝廷や貴族たちに仕えるなかで戦闘を職業としていたようです。武士たちは武力を手にするなかで、荘園と呼ばれる田畑の開発をするための所有地の経営者となり地域においてその権力を誇示するまでになったようです。朝廷に仕えていた武士たちは、近衛府、兵衛府、衛門府、検非違使、滝口の武士などと呼ばれていたようです。貴族や皇族に仕えていた武士たちは侍(さむらい)と呼ばれていたようです。彼らは中央政権のもと都などにいたようですが、地方にいる武士たちは、押領使、追捕使などと呼ばれていたようです。

徳川秀忠の愛刀

徳川秀忠は長く平和がつづく江戸時代の基盤をつくったとして、その貢献が称えられております。大阪城に人質に出されていた秀忠の名は、元服の際、秀吉に基づくとも言われ、秀吉の正室ねねとも所縁が深いとされています。幼少期から豊臣家との関係性が深い秀忠が、大阪の陣にはどのような面持ちで出陣をしたか、その心中は想像するに絶するものがあります。大阪の陣にて陣頭指揮をとる秀忠が帯刀していたとされる日本刀が越中則重作であったと言われております。鎌倉時代の後半につくられたであろうとされている則重作の脇差は無銘とされ、このような無銘の刀剣を秀忠が大事な戦に所持していたことは、なんとも不思議な縁でもあるようです。さらに秀忠の愛刀として知られている「奈良屋貞宗(ならやさだむね)」も豊臣家に所縁が深いとされています。秀忠の刀剣選びを垣間見ておりますと、彼自身の立場や立ち位置が非常に複雑なものであったことが伺い知れるようです。

剣聖塚原卜伝

吉川朝孝は鹿島新当流を創り、名乗りを「塚原卜伝」とした。生涯において「真剣勝負19回、戦働き37回、一度も不覚を取らず矢傷6ヶ所のみ傷一つなし、立ち合いで敵を討ち取ること212人」との伝説が残っている。香取神道流の始祖飯篠家直は、下総国香取郡飯篠村の郷士出身である。

幼い頃から武術に優れていたらしい。ある日、従者が香取神宮の神井で馬を洗ったところ、突如として苦しみだし人馬ともに死んでしまった。家直は、香取神宮の主祭神、経津主大神のご真意と受け止め、千日千夜の大願を発起し修行に務めた。

すると、「汝、後に天下剣客の師とならん」との託宣と兵法神書一巻が降され、香取神道流を創設した。大和朝廷の蝦夷平定の北辺の守りの地、鹿島神宮、香取神宮から日本剣術の二大源流が生まれたことは、時代の必然であったのだろう。

鹿島新当流

奥州侵攻の最前線であった常陸国・下総国には、腕に自信がある強者が集結した。必然、剣術の鍛錬が日常になった。

鹿島神宮の社宝「鹿島の太刀」を古来より伝承してきたのは、吉川氏。吉川左京覚賢の次男、吉川朝孝も「鹿島の太刀」の伝承者であった。朝孝は塚原家に養子に入り、香取神道流を学んだ。

のちの剣聖塚原卜伝の誕生である。16歳で諸国修行に旅立ち、14年にわたる修行行脚で剣技は上達したが、死と隣合わせの暮らしの中で憔悴して鹿島に帰郷する。

鹿島神宮に千日間参籠し精神を鍛え直し、剣技のさらなる研鑽に努めた。鹿島大神より「心を新たにして事に当たれ」との御神示が下され、鹿島新当流を創始した。

「津田遠江長光」と「大般若長光」

「津田遠江長光(つだととうみながみつ)」は、徳川美術とされる国宝級の太刀であります。「大般若長光」と並ぶ、織田信長の愛刀とも言われておりますが、信長以前の所有者は不明であるともされているようです。

号の由来は、本能寺の変で信長を破った明智光秀が、本能寺から「津田遠江長光」を持ち出し、家臣であった「津田重久」におくったことであるとされているようです。

本能寺の変以降では明智光秀の死後、前田家に仕えることとなった津田重久から前田利長の手に渡り徳川家に献上されたなどといったルーツが語られています。

備前長船派の長光の大名物として「大般若長光」の号が語られることが目立つなかで、同じく時代の大きな変貌を知る刀剣であるようです。