伯耆国宗

国宗は、鎌倉末期、伯耆国で活躍した刀工である。備前長船の名工「備前三郎国宗」との混同を避けるため「伯耆国宗」と呼称される。師匠は、備前長船「備前三郎国宗」である。

腰反りの刀姿が、鎌倉時代末の様式を反映している。現存する太刀は数振り存在している。作風は、直刃に小乱交りの古風な刃文。やや肌立った板目の地鉄。「伯耆物」らしい刀剣である。

銘は、「国宗」とのみ刻み、長銘は確認されていない。代表作は、重要文化財指定「太刀 銘 国宗(伯耆)」これは、十二代彦根藩主井伊直亮の指料であった。当初は同名の「備前三郎国宗」の作とされていたが、特長から伯耆国宗作と断定された。

さらに、代表作としては、重要美術品「刀 銘 国宗(伯耆)」がある。この刀は、「山名家」から鳥取藩主「池田家」へと伝承された伯耆正宗の名品である。

「山名家」はその最盛期に天下六十余州のうち十一か国の守護職に任ぜられ「六分の一殿」と称され、応仁の乱では西軍の総大将に推戴されるほどの武家の名門であった。

切刃貞宗の形容

切刃貞宗について話をしていきたいと思う。刃長は、一尺五分、「切刃」の銘の由来は、造り込みが片切刃になっていることに由来する。

指し表は平造り、庵棟。素剣には梵字が印刻されている。裏は由来の片切刃造りで腰樋を掻く。理忠寿斎の手になる彫物。二重はばき、下貝金着、上貝無垢。地鉄は板目肌。

刃文はもと大五の目乱れで裏は飛焼きがある。茎には、大坂城で焼かれた際の熱で溶けた金が付着している。

茎の形は剣形、目釘孔は4つ。大坂城落城の後、再刃したため、彎れ風の直刃に焼き直された。拵えは、白鞘で「切刃貞宗 長尺五寸 代不知 表棒樋裏剱梵字」の墨書がある。

現在は、松平頼重の子孫松平頼明氏の所有で香川県立ミュージアムが保護管理をおこなっている。

安定した室町時代から戦乱の世へ

室町時代の前半は、足利将軍家による政権が安定した時代でもありました。1467年、応仁の乱後は、室町幕府の衰退がみられ、日本全国各地で守護大名らの動きが活発化した戦乱の時代に突入することになります。世の中が戦乱ムードになるにつれ、日本刀の需要も増していったと言われております。日本全国各地にみられる有名刀工らも出現しはじめ、これまでの流派などの特色が薄れる中なかで各刀工らのオリジナル作品とも言えるような名刀も登場しはじめたようです。また、これまでも数多くの名刀が作られた備前においては、日本刀作りが組織的に行われるようになるにつれ、日本刀の大量生産が可能ともなったようです。これまで代表的な刀工が集中していた備前の他、美濃、伊勢、駿河など東海地方に数多くの刀工の存在がみられたようです。合戦の場が東海地域に集中していたこともその理由としてあげられているようです。彼らはそれぞれ戦国武将たちのお抱え刀工として注目を浴びるようになったそうです。

当たり前の風景のなかの日本人

皆さんは日本国内の公道がどうして「左側通行」であるのかをご存知でいらっしゃいますか。その歴史をさかのぼると、日本人が左側通行を好んだのは、日本刀を持った武士たちが日本刀を腰から下げていたことが要因であるなどとも言われているようです。

右利きである人が腰にある日本刀を抜くには、左側に刀を収める必要がありますので、武士たちが街中を歩く度に刀と刀がぶつかり合わないように、人々が左側通行をルールとすることによって、街中の人々の通行がスムーズに行われていたようなのです。

物事には何事にも理由や歴史があるとは言われますが、現代人の多くが日本刀の存在から遠のいてしまっておりますので、実際にどうして街中の交通ルールが左側通行であるのかというような質問は、教習所でそのように交通ルールとして学んだからなどと答える若者も多いとは思われますが、そこには日本人のルーツや深い歴史が潜んでいるのです。

皆さんが当たり前のようにある日常の風景に、日本人のルーツが隠されているかもしれませんよ。

中古品の刀剣を手に入れたい

中古品であろうとなかろうと、日本刀をコレクションする前に知っていただきたいことの一つに、刀剣は湿気に弱く、拵などの装飾は日光の日差しに弱いという点であります。

数百万円もするほどの刀剣のコレクションを手に入れたからといって、保管場所が適していなければせっかくのコレクションが台無しになってしまうこともあるでしょう。是非ともご購入前にお考え頂きたいのは、まずコレクションする条件の置き場所であります。

一般的には、1メートル前後の置き場所が必要となってくるのではないでしょうか。現代家屋の中で床の間を探すのは大変難しいかもしれませんが、湿気が少なく日光が当たらない場所をまずは、ご自宅の中で吟味する必要があります。刀剣は、骨董市などの掘り出し物が少ないと言われています。

楽屋価値を決めるのが作者であったり、傷やメンテナンスによるところが大きいよすです。作者によってほぼランクや価値が決まってしまうのが刀剣の見極めに繋がってくるようです。

少し変わった作品

名刀のなかでも、少し変わった作品として知られているれているのは、形が庖丁に似ている3振の短万です。

この包丁に似ている作品は庖丁正宗と呼ばれるものです。それぞれの刀が美術館などに所蔵されています。

具体的には徳川美術館蔵、永青文庫蔵、法人蔵に所蔵されています。その中でも徳川美術館蔵の庖丁正宗は、大模様で姿もよいのが特徴となっています。

これは、表裏にある鍬形と剣の透かし彫美しい尾張の徳川家に伝来している品です。

正宗の実在を証明する数少ながもっとも信頼に値する作品の中からに不動正宗を紹介します。

この不動明王の彫物は寛三筆の一人、本阿弥光悦の父・光二の好みによって彫りもの上手だった野間玄琢の祖父が彫った『享保名物帳』が伝えています。

ちなみに、玄琢は光悦と親交が深く 、徳川2代将軍秀忠の侍医を務めたことで有名な人物です。

日本に息づく日本刀の存在

日本刀は、作られた年代によって上古刀、古刀、新刀、新々刀、現代刀などに区別されているようです。その他、年代による区別とは異なり外観から「太刀」「刀」「脇差」「短刀」などといった形で呼び名が変わるようです。その他にも、刀が反り返っている、反り返っていないなど、といったようなフォルムの異なりから「直刀」「彎刀(わんとう)」などとも呼び分けられているようです。「太刀」「刀」は、約60CM 以上のものを言うようです。「脇差」は、約30 CM から60 CM 未満のものを指しているようです。「短刀」は、約30 CM 未満のものを表しているとのことです。日本刀は日本人の魂などとも呼ばれ長い歴史の中で、時には戦いの中で、時代が変わればお祭りごとの行事の中で、その存在や働きの力を発揮してきました。 日本刀の存在の意味が大きく変わったのは、江戸時代の泰平な世が訪れた時であるなどとも言われています。それまでは戦国時代の動乱の中で刀は、武器として自分の身を守るもの、または相手を封じ込めるものとして、様々な進化を遂げていきたいようです。泰平の世の中が長らく続く江戸時代の中では、日本刀は美の象徴であったり芸術品として扱われる傾向が見られているようです。大きく時代の反映を映す鏡として日本刀は日本人と共に歴史を紡いで生きているようであります。

実在しないが、人気の太刀

“村雨(むらさめ)・・・滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」に登場する想像の太刀である。「抜けば玉散る氷の刃」と言われ「村雨」あるいは「村雨丸」と言われる太刀で、八犬士の一人・犬塚信乃が所有する太刀である。

その他物語に登場する日本刀としては、「国定忠治」の「加賀五郎吉兼」、

「丹下左膳」の「乾雲丸」「坤竜丸」等が有名である。”

『いっしん虎徹』

2004年に第11回松本清張賞を受賞し、映画化もされた『火天の城』(文芸春秋)という小説をご存知だろうか。この小説の執筆を経て山本兼一氏は「職人がおもしろい。万鍛冶のことを書きたい」と思った。そして、『いっしん虎徹』(文芸春秋)が生まれた。「刀の基本的な作り方は時代を越えて伝わっている。けれど鉄は時代によってまるで違う。虎徹は古鉄卸しの技法が得意た刀工で古い鉄を再生させている。虎微を選んだので、鉄の日本史が書けるから江戸期の新しい鉄は、虎徹であれば古い鉄 。虎徹は万工としては出来に差があるのが難だが、すばらしい虎徹はとても品格がある」。応永以降に刀なしと言った江戸期の刀工水・水心子の言葉を証明するかのように、山本氏は古い鉄を愛していた。なお、山本兼一氏は1956年、京都市生まれで、同志社大学卒業、出版社勤務、フリーランスのライターを経て作家になった人物である。